アルフォンス・ミュシャは1860年、モラヴィア地方のイヴァンチツェに生まれた。少年期から絵と音楽に親しみ、教会の装飾や舞台美術にも関心を持った。
1879年にウィーンへ出て、劇場装飾を手がける工房で働いた。火災による解雇後はモラヴィアへ戻り、クーエン=ベラシ伯爵家の援助を得てミュンヘンで学んだ。
1887年にパリへ移り、挿絵や広告の仕事で生活した。1894年末、女優サラ・ベルナール主演の舞台《ジスモンダ》のポスターを引き受け、その細長い構図と装飾的な線で一躍知られるようになった。
ベルナールとの仕事に続き、《ジョブ》《黄道十二宮》《四季》《四芸術》などを制作した。曲線的な髪、花、円形の飾りを組み合わせた様式は、当時のアール・ヌーヴォーを代表する視覚表現となった。
ただしミュシャ自身は、流行の装飾画家だけで終わることを望まなかった。1904年からアメリカへ渡って肖像画や教育の仕事を行い、スラヴ民族の歴史を描く大連作の資金を求めた。
1910年に故郷へ戻り、プラハ市民会館の装飾に取り組んだ。1912年からは実業家チャールズ・クレーンの支援を受け、巨大な20点組《スラヴ叙事詩》を制作した。
《スラヴ叙事詩》は戦争の勝敗だけでなく、宗教、教育、文化を通してスラヴ諸民族の歴史を構成した。1928年、連作はプラハ市へ寄贈された。
1939年、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアを占領すると、ミュシャはゲシュタポの尋問を受けた。同年7月にプラハで死去した。現在はポスターと大画面の歴史画の両方から再評価されている。
舞台ポスターで名を上げた後、20点組の《スラヴ叙事詩》へ長年取り組んだ。
出典:ミュシャ財団 年譜 / ミュシャ美術館 略歴 / ミュシャ財団 《スラヴ叙事詩》(2026-09-14 確認)
装飾様式を一括して「ミュシャ様式」と断定せず、商業美術と歴史画の二つの軸を分けた。
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