フランシスコ・デ・ゴヤは1746年3月30日、スペイン北東部のフエンデトドスに生まれた。1828年にフランスのボルドーで亡くなるまで、宮廷のための明るい装飾画、王族や市民の肖像、戦争の暴力、私邸の壁に描いた不穏な絵まで、同じ画家とは思えないほど幅のある仕事を残した。
サラゴサでは画家ホセ・ルサンに学び、のちにマドリードでフランシスコ・バイユーに学んだ。1763年と1766年には王立美術アカデミーの競技に挑んだが、入賞できなかった。その後1769年頃から1771年までイタリアに滞在し、1771年には《アルプスから初めてイタリアを望む勝利者ハンニバル》をパルマ美術アカデミーの競技へ出品した。ここでは一等を得ていない。後の名声から出発点まで一直線に成功した画家だと考えないほうが、歩みを理解しやすい。
1775年、ゴヤはマドリードへ移り、王立タピスリー工場のためのカルトン制作を始めた。カルトンとは、小さな下書きではなく、織物へ図柄を写すための原寸大の彩色原画である。《日傘》の明るい色と優美な人物は、ロココと呼ばれる18世紀の軽やかな表現と結び付けて見られる。ただし、その後の暗い作品だけを知って「本当のゴヤは暗い」と決めると、この宮廷仕事の時期を見落としてしまう。
ゴヤは1786年に国王付き画家、1789年に宮廷画家となり、1799年にはカルロス4世の首席宮廷画家へ昇進した。宮廷画家とは、王室のために肖像や装飾画を制作する公的な画家である。《マヌエル・オソリオ》や《カルロス4世の家族》では、衣装や身分を示す物を描きながら、一人ひとりの顔と姿勢を同じ形には揃えていない。
1792年の冬、ゴヤは重い病気にかかり、回復後も難聴が残った。その前後に作品の主題と雰囲気が変化したことは確かでも、「耳が聞こえなくなったため暗い絵を描いた」と原因を一つにすることはできない。《狂人の庭》のような小さな私的作品と、《魔女の飛翔》のように注文先のある幻想画も分けて見る必要がある。
1808年の出来事を扱う《1808年5月2日》と《1808年5月3日》は、その場で描かれた実況記録ではなく、戦争が終わった1814年に制作された。ゴヤが同年2月に二作品を提案し、摂政会議が制作費と月ごとの報酬を認めたことが記録に残る。一方は民衆と騎馬兵が入り乱れる戦闘、もう一方は銃殺直前の人々を描き、暴力の異なる局面を並べている。
1819年、ゴヤはマドリード郊外の家キンタ・デル・ソルドを購入した。1820年代初め、その壁へ後に《黒い絵》と呼ばれる一群を描いた。《サトゥルヌス》と《犬》もこの壁画群に含まれ、現在はカンヴァスへ移された状態でプラド美術館にある。「黒い絵」は黒一色という意味ではなく、後世にまとめられた呼び名である。政治、老い、孤独などの意味を一つだけ正解にしない。
ゴヤは1824年にフランスへ渡り、ボルドーに定住した。1828年4月15日から16日にかけての夜、同地で亡くなった。晩年を《黒い絵》の暗さだけで終わらせず、青や灰色の軽い筆触が広がる《ボルドーのミルク売り娘》まで見ると、最後まで表現を変え続けた画家だったことが分かる。ただし、この作品にはロサリオ・ワイス作とする異論もあり、作者は断定しすぎない。
後世には、戦争画や《黒い絵》をロマン主義と結び付けて論じることがある。ここでのロマン主義は、激しい感情や歴史の暴力、不安を扱う作品を見るための補助語である。ゴヤの生涯全体を「ロココからロマン主義へ」という一直線の進歩にせず、宮廷からの注文、個人の制作、歴史的事件、技法の違いを作品ごとに確かめたい。
《5月2日》《5月3日》は、事件から6年後に一組で描いた。
出典:Fundación Goya en Aragón ゴヤの生涯 / プラド美術館 ゴヤをたどる / ナショナル・ギャラリー(ロンドン) ゴヤ紹介(2026-09-08 確認)
生涯の各記述は所蔵館・公的専門財団の資料をclaim単位で照合しています。難聴を画風変化の唯一の原因にせず、ロココとロマン主義は時期を理解する補助語として扱っています。詳しい根拠は data/verification/claims.json に記録しています。
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