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レオナルドの生涯

1452–1519
1452年4月15日の夜、ヴィンチという村で生まれた。父は公証人こうしょうにんのセル・ピエロ。母はカテリーナという女性で、身元がはっきりしていない。二人は結婚しておらず、父はその同じ年に別の女性と結婚している。1457年には、レオナルドは祖父アントニオの家で暮らしていた。
父はフィレンツェで公証人として働き、メディチ家をはじめとする有力な家を顧客に持っていた。1469年には、レオナルドもその家で暮らしている。ヴェロッキオの工房にいつ入ったのかを示す記録は、まだ見つかっていない。ただ20歳の1472年には、画家の組合に「セル・ピエロの子レオナルド、画家」として登録されている。同じ工房には、ボッティチェッリやギルランダイオもいた。
30歳の1482年、ミラノへ移った。売り込みの手紙の草案が残っている。橋の架け方、大砲、水を扱う技術など、軍事と土木の技師としての能力を前面に出し、最後に絵画や彫刻の腕にも触れている。ミラノでは17年を過ごし、岩窟がんくつの聖母と最後の晩餐を描きながら、力学・水理・解剖学の手帳を埋め続けている。1499年、フランス軍が攻め込んで公が失脚し、彼は街を離れた。
そこから十年あまり、居場所が定まらない。マントヴァとヴェネツィアを移り歩いた。1502年から翌年にかけては、チェーザレ・ボルジアという軍人のもとで軍事技師として働いている。51歳の1503年にフィレンツェへ戻り、モナ・リザを描き始め、政庁舎の大壁画を引き受け、丘の上で鳥の飛び方を調べた。1506年にはミラノへ呼び戻され、絵画制作を続けながら、解剖・水理・幾何学の研究も進めた。
61歳の1513年9月、ローマへ移る。呼んだのはジュリアーノ・デ・メディチという後援者だった。ヴァチカンに仕事場をもらい、古代の遺跡を調べ、幾何学の問題を解き、湿地を干拓かんたくするための地図を作っている。ところが1516年3月、その後援者が死んだ。手帳に残った一行はこうである。「メディチが私を作り、メディチが私を壊した」。
同じ1516年、アルプスを越えてフランスへ渡った。国王フランソワ1世から「王の第一の画家、技師、建築家」の称号を与えられ、アンボワーズ近くの館に住んだ。右手が麻痺まひしていたと伝えられるが、それでも理想の都市を設計し、祝祭の仕掛けを考え、描くことをやめていない。1519年4月23日に遺言ゆいごんを書き、手帳も素描そびょうも道具も、すべて弟子のフランチェスコ・メルツィに遺した。5月2日、その館で67歳で死んだ。
右手が麻痺してからも、設計と祝祭の仕掛けを考えることはやめなかった。
出典:ガリレオ博物館(フィレンツェ)レオナルド年譜 / アンブロジアーナ図書館 ルドヴィーコ宛ての手紙の草案(2026-08-28 確認)
年の骨格は、ウフィツィ・ルーヴル・ロンドンのナショナル・ギャラリーの各作品ページとも突き合わせて一致を確かめた。
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